昭和45年5月27日 夜の御理解
御道では立ち行くという言葉を使いますね。お互いが立ち行かなければならない。それは自分だけではない、人も立ち行かねばならない、親も立ち行き、子供も立ち行き。それをまぁ、神様と私共の場合は、やはり神様も助かって下さらなければならない。私共も立ち行かなければならない。
立ち行くという事は、まぁ色んな時に使われます。あちらも立ち行きますように、こちらも立ち行きますようにという、そのことを今日、立ち行くということについて私今御祈念に思わせてもらいよりましたらね、荷い、荷い物を致しますね。荷いものを致します時に、( ? )もん何か、荷、出来ないですけれども。例えば両方に丁度五十キロなら五十キロづつをこう担えば、真ん中を荷えば良いわけですけれどもね、表、前が軽かったり、後ろが軽かったりする場合があります。そういう時にはそのかた、荷う肩のところを丁度、重さの中心があの、来る所に肩を持って行かなければなりません。
又これを二人で、一つの物を荷う時ような場合でもですね、例えばなら大人と子供とで一つの物を荷いますと、もうお前も荷え、私も半分荷えと言うようなことで真ん中にかけたら、背の小さい子供の方へばかり荷はかかってしまうようなもんです。
だからね、やはりそれには親の方へぐっとこう、大人の方へぐっと、力が強い方へぐっとこう引いておいて、そして先の方を、先を担がせるという風にしなければ、そこにあの(になやいっか?)とか又は丁度良い歩き、行き方が出来ませんように、両方が立ち行くということはね、そういうような事だと言う事。
そこからそのヒントを頂いてからですね、私共口だけで立ち行きますように、立ち行きますうようにとだけではいけない。やはり子供の持てないところは親がもっとこう、これこそうんと持ってあげて、手前の方に引いてやって、そこに親子の立ち行きがある。全てが立ち行くという事は、そんな事からヒントを頂いていくところに成る程、荷えば一荷といったような丁度良い具合な荷い方。又は片方との調子を取っていくところに、楽な生き方というのがある。
どうぞその、こちらも立ち、全部が皆が立ち行きますようにと言うのは、そういうような内容を持っておかなければならないと、言うようなことを今晩、そんなことを頂いてからまぁ感じました。
まぁだ立ち行くという事でも、他にも意味がございましょう。どうぞ誰々さんが立ち行きますように。と言うような祈りを致しますなら、そのただ祈るだけはいけん、祈るならば、祈るだけのやはり修行をさせて頂いてから祈らなければ、同じようなことではなかろうかとこう思うですね。どうぞ。
梶原 佳行